トップ静岡県の東海道の魅力>散策のツボ!(用語解説)|

散策のツボ!

東海道を歩く時、知っておくとより楽しめるあれこれを整理します。

東海道とは

東海道 「東海道」という言葉がつくられたのは7世紀頃です。もともと14の国が含まれる行政区域のことでした。1601年、徳川家康公は五街道を整備を行い、宿駅制度を確立し、東海道を「道」としました。

宿場とは

間宿 宿場ごとに人馬を交代して書状や物資を運ぶことを「伝馬制」といい、律令時代に出来た制度です。家康公はこの制度を取り入れ、東海道に53の宿場をつくっています。宿場には人馬の継立ちや宿泊施設などがありました。宿場以外の場所での宿泊は禁止されていました。

間宿(あいのしゅく)・立場(たてば)

間宿 間宿(あいのしゅく)は宿場間の距離が長い所、峠等の難路の所などにできた休憩を目的につくられた宿です。立場は、主に一般の人が休憩できる施設のことです。

問屋場

問屋場 馬の手配や次の宿場まで荷物の受け継ぎなどの宿場の主要な業務を行う施設です。東海道では馬100匹、人足100人を用意することになっていました。

本陣・脇本陣

本陣 大名や武士、公家など身分の高い人が宿泊・休憩する施設で、宿泊者が多いと脇本陣も利用されました。

旅籠(はたご)・木賃宿(きちんやど)

旅籠 一般の人が利用した宿泊施設で、食事付が旅籠で食事が無しは木賃宿といいました。

高札場(こうさつば)

高札場 幕府からの禁制や法度などのお触れなどの情報を掲示した場所です。ちなみに江戸末頃の識字率はロンドン、パリが10〜20%程度であったのに対して江戸は70%といわれています。

見付(みつけ)

見付 宿場の出入口のことで、門が置かれ、番所がある宿場もあったようです。木戸、棒鼻とも呼ばれます。

一里塚

一里塚 江戸日本橋を起点に旅行者の目印として一里(約4kmごと)104箇所つくられました。沿道沿いに塚を設け、榎などの木を植栽し、休憩できる木陰をつくったといわれています。また同じころ沿道には松や杉、柳などで並木も整備され、夏の暑さや冬の寒風を防いでいました。この並木の伐採などを禁止していました。

枡形(ますがた)

枡形 宿場は敵の侵入に備える城塞としての役割もあることから宿場の出入口は敵の進軍を遅らせるため、鍵の手に曲げたり、カーブさせたりしています。

川渡(かわわたり)

川渡 東海道には橋を架けずに船や人により渡していた川が多くありました。「船渡し」の川は、六郷川(多摩川)、馬込川(相模川)、富士川、天竜川と今切、七里の渡しでした。旅人は船会所で渡し賃を支払い船に乗りました。「徒歩(かち)渡り」の川は、酒匂川、興津川、安倍川、瀬戸川、大井川であり、肩車越、輦台(れんだい)越、手曳(てびき)越などで渡りました。旅人は川会所で川札を買い、人足に渡し、人足はその川札を札場に持っていって換金しました。

▲ このページのトップへ